第8章 吐き気のするあざとい女
一時間後、南雲玲奈は再び会社へ戻った。
横尾孝人が、すぐ横に立っている。まるで彼女が逃げ出すのを警戒しているみたいに。
玲奈は俯き、そっと袖をたくし上げた。さっき強引に掴まれたあたりに、赤い痕がぐるりと一周。じわり、と鈍い痛みが残っている。
オフィスの入口に着くなり、横尾孝人は感情のない機械みたいに、硬い声で言い放った。
「今回は俺が直接見張る。引き継ぎを完璧に終わらせろ」
胸の奥に、冷たい氷が張りつく。指先まで冷えた。
――狙いなんて、分からないはずがない。
きっと、あの男が一番大事にしている初恋相手が、また自分に『嫌がらせ』されないように。そういうことだ。
そこへ中島美奈も入ってくる。
彼女は小走りで横尾孝人の隣へ寄り、拗ねたみたいな口調で言った。
「孝人、玲奈に厳しすぎるよ。もう少し優しく言ってあげて……。私、玲奈がわざと抜け漏れを作ったとは思わない」
横尾孝人は眉間に深い皺を刻んだまま、少しも声を和らげない。
「こうでもしないと真面目にやらない。君が庇う必要はない。彼女が君の半分でも分別があれば、俺がわざわざ来ることもなかった」
その会話を聞いて、玲奈は怒りで手が震えた。
――まただ。何度目だろう。横尾孝人という男の底が、また更新される。
中島美奈は申し訳なさそうに、そっと彼の服の裾をつまむ。
「そんな言い方しないで、玲奈がかわいそうだよ」
そして玲奈へ向き直り、親しげに微笑んだ。
「玲奈、孝人に腹を立てないで。彼、昔から仕事には本当に厳しいでしょ? 今回はもう気をつけて。抜けがなければ、孝人だって責めたりしないから」
その瞬間、玲奈は込み上げる吐き気を押さえた。
あざとい――その一言に尽きる。
無垢な顔をしているくせに、瞳の奥には一瞬だけ嘲りと得意が走る。横尾孝人がそれを見ないことまで、計算済みなのだろう。
そして、横尾孝人はその芝居を丸ごと信じて、美奈だけを守る。
玲奈は、自分が濡れ衣を着せられても弁解できないと悟った。
――どうせ、信じない。
どんな言葉も無駄。唇を動かすだけ時間の浪費だ。
ここに一秒でも長くいたくなかった。
横尾孝人の強制から逃れるため、玲奈は感情を押し殺し、素早く、そして淡々と引き継ぎを片づけていった。
すべて終えると、氷のように距離のある声で横尾孝人へ言う。
「これでよろしいですか、横尾社長」
横尾孝人は、そのよそよそしい呼び方を気にもしない。会社では上司と部下――それだけだとでも言いたげに。
「漏れがなければ帰っていい」
玲奈はそれ以上何も言わず、踵を返した。
オフィスエリアを通り抜けると、胸の奥がざわつく。
ここでどれだけ汗を流しただろう。何度、夜を明かしただろう。積み上げてきたものが誰かの踏み台になり、自分はゴミみたいに捨てられる。
息が詰まり、玲奈は歩く速度を上げた。早く、早くここを出たい。
エレベーターを待っていると、かつて一緒に戦ってきたチームの面々が、慌てて追いかけてきた。
「南雲部長、本当に辞めちゃうんですか?」
「行かないでください……俺たち、すごく寂しいです」
「中島部長、なんか偉そうで苦手です」
「おい、声がでかい」
別の同僚が、ひそひそと耳打ちする。
「中島家のお嬢様だよ。社長の幼なじみでしょ。しかも、関係が特別っぽい」
「今朝なんて、彰人様まで様子見に来てたし……」
「最上階の秘書が言ってた。社長の想い人で、将来は社長夫人かもって……」
玲奈は驚かなかった。
中島美奈が来てまだ一日。横尾孝人も横尾彰人も、全力で守りに入っている。噂にならないほうが不自然だ。
そして――その噂は、いずれ現実になるのかもしれない。
玲奈は議論に加わる気にもなれず、皆が一通り言い終えたころにだけ口を開いた。
「ごめん。もう一緒に戦えない。でも、これからは新しい部長のもとで頑張って。……また縁があれば会おうね」
その言葉に、ざわついていた面々がぴたりと黙る。
副部長の大村碧が前へ出て、玲奈の腕にぎゅっと絡みついた。
「玲奈、あなたの実力はこんなところで埋もれるべきじゃない。研究室があなたを残さないなら、せめて送別会をさせて。今夜、一緒にご飯行こう。ね?」
「玲奈さん、こんなにいい上司、初めてでした。お願い、断らないでください」
「次いつ会えるか分からないし、今夜だけでも……」
玲奈は食欲なんてなかった。
けれど、何人かは目まで赤い。そんな善意を、どうして突っぱねられるだろう。
結局、玲奈は小さく息を吐いて頷いた。
「分かった。……じゃあ、区切りのご飯ってことで」
……。
その夜、漓江レストランの個室。
南雲玲奈は香澄を落ち着かせてから、約束通り店へ向かった。
到着すると、すでにチームは揃っていて、口々に声をかけてくる。
「玲奈さん! こっちこっち! 席、取ってあります!」
玲奈は会釈し、促されるまま席に着いた。だが、左隣が二席分、ぽっかり空いている。
周囲を見回し、首を傾げる。
「……まだ誰か来てないの?」
その一言で、空気が凍った。
次の瞬間、個室の扉が開く。
入ってきたのは――横尾孝人と中島美奈だった。
玲奈の思考が止まる。反応するより早く、中島美奈が甘い声で場を明るくした。
「みんな揃ってる? 待たせちゃったかな」
さらに玲奈へ視線を向け、にこりと笑う。
「玲奈も来てたんだ。私の歓迎会、来ないかと思ってた。来てくれてうれしい」
横尾孝人は玲奈を一瞥しただけで、表情を崩さない。
玲奈の顔から血の気が引いた。
――歓迎会?
これは、自分の送別会じゃなかったの?
同僚たちへ目を向けると、皆が気まずそうに視線を逸らし、誰ひとりとして玲奈と目を合わせられない。
指先が冷たくなる。玲奈は荒れそうな呼吸を押し込み、隣の大村碧に低い声で問うた。
「……どういうこと? なんで彼女がいるの。送別会って……私を騙したの?」
大村碧は慌てて、さらに声を落とす。
「違う、玲奈。私たちも、こうなるなんて思ってなくて……」
